2019年箱根駅伝お正月恒例の行事として熱戦が繰り広げられました。結果青山学院大学は2位となり連覇を達成することが出来ませんでした。当日の天候選手の体調が、鍵を握る監督として非常にプレッシャーの掛かる大事な選択です。この大会では、2区で8位になり3区主将の森田が挽回1位になりその後、3位そして5区山登りでは6位となりました。
後半復路6区では、5位7区では3位、8、9区と続き最終10区で2位までと優勝までは手が届かなかった結果となりました。この青山学院の後半戦挽回劇は、選手層の厚みとも言われています。この選手層の厚みを就任当初から作り上げた原監督とはどんな人なのでしょうか?
サラリーマン生活をした10年間、陸上界との関わりはありませんでした。選手として箱根駅伝に出場した経験はもちろんのこと、出場校OBでもなければ監督経験もない、異色中の異色の経歴を持った男といえます。
青山学院原監督の幼少期から学生時代

広島県三原市糸崎町の出身です。幼少期は、活発でケガをした事からのリハビルで、ジョギングを始めた事が、陸上を始めるきっかけと成ったようです。
高校は、駅伝で強豪な世羅高校に進む3年生の時に主将で全国高校駅伝で、4区を走り区間2位で順位を6つ上げて2位入賞をしています。
大学は、中京大学に進みます。高校時代が、厳しい事があってのびのびと出来る環境で、陸上が出来る また父親が教員でもありその影響から体育教員になれれば、との思いから中京大学を選んだそうです。
青山学院原監督の社会人
大学卒業後は、中国電力に入社し陸上部創部したばかりの一期生として入部し当初部員数5名からの陸上です。1993年には実業団駅伝に初の出場していますが、一年目から故障が、多く27歳で引退をしています。
引退後は、陸上とは関係い仕事をし営業としての活躍ぶりを、発揮しています。オール電化住宅の普及から、約一千万円の省エネ空調設備を、社内一番の売上実績を作っています。
その後、最後の3年間は、原監督を含む5名で立ち上げた会社を伸ばし社員100名程までにしています。
青山学院陸上部監督に就任

2004年に青山学院大学の監督に就任していますが、この就任をするのには、色々なと悩んだそうです。
世羅高校時代の後輩で青山大学陸上部OBの橋渡しあり3年の嘱託契約、将来保証も無くこの時仕事も順調で、家も購入したばかり自分の中での陸上をしたいとの気持ちから回りの人たちからは、反対も有った様です。
その時にお母さんからやるなら日本一に成りなさいと言われ監督就任を行たようです。最初の約束が、3年で箱根駅伝出場、5年でシード権、10年で優勝を約束したため 3年目で箱根駅伝の出場を逃し、その後何とか1年の契約延長で、2007年惜しくも箱根駅伝出場を逃したものの、その実績を買われ、大学職員に昇格したようです。
2008年では、学生選抜の監督として箱根駅伝四位に成ったこと85年から出場校が、増える事で予選会13位に入り2009年第85回箱根駅伝に出場、就任5年目で33年ぶり青山学院箱根駅伝出場と成ります。
その後、2010年第86回大会では8位、41年ぶりのシード権獲得、2012年出雲駅伝優勝、2015年第91回箱根駅伝では創部97年目にして初の総合優勝、2016年第92回大会では総合完全優勝、2連覇達成、2017年第93回では3連覇も達成、2018年第94回でも4連覇を達成しました。
箱根駅伝も青山学院大学の実力発揮が、楽しみですね
原晋監督経歴

原 晋(はら すすむ)
生年月日 1967年03月08日(51歳)
出身地 広島県三原市
身長 176cm
体重 81kg
広島県立世羅高等学校
中京大学
中国電力
青山学院大学陸上部監督
まとめ
青山学院原監督は、今までにない環境、組織を基礎から作り選手の体調をベストにする。
また精神面でも、現代の問題を理解し気持ちよく陸上競技に打ち込める考えを教え込み学生生活だけではなく将来への社会での活動が正しく出来るように導いています。
これからの青山学院選手達は、将来も期待出来る存在と成るでしょう。